出崎統監督作品 劇場版=AIR

早速、映画を観てきました。以下、感想です。
80年代風の作品として仕上がっていたのではなくて監督である出崎氏の感性が当時のままで留まっていたことが見ていてよく分かりました。
つまり新海誠氏が出現してからのアニメにおいて明らかに変化が見受けられた現実があるのだが、どうやらその洗礼を受けずに来てしまったことが・・・。

上映が終わった後に劇場に漂っていた何とも言えない空気。無言で出て行く人の群れ。正直、弱ったなぁというのが見た後の印象だった。
往人、観鈴、晴子といった主要キャラクターで構成された物語は、ゲームを巧みに再構成し90分という時間の枠に収まっていた。
時間の制約があって設定を変える点も多々あったが決して物語が破綻しているわけではない。
それなのに何故?どうして?WHY?僕らは、いつもこう問わざるをえないのか?
それは「変換」作業にある。脚本を何回も書き直していく内に突き抜けた何かが消えてしまっているように思えるのだ。
劇場版「メトロポリス」然り。「スプリガン」然り。これが本作でも明らかに見られたわけだ。冒頭から作品に漂っている違和感。それは往人と観鈴のキャラクターの違いである。
性格の違いなどは些細な話だ。それで統一されていれば納得もする。だが30分を過ぎた辺りから観鈴の口癖である「にはは」「がお」が登場していきなりゲームのキャラクターに変貌する。
往人に至っては閉塞感に囚われ基本的に全く違うキャラである。それが観鈴の具合が悪くなる中盤からゲーム版の心情へと変貌するため混乱すること必至である。
更に劇場版=往人は国崎往人では無くて実は「あしたのジョー」の主人公=矢吹丈その人であったことに気づく。
往人の話し言葉。座り方。歩き方。そしてその瞳。全てが矢吹丈そのままであり、往人は自分の場所を求めて彷徨う孤独の象徴として描かれている。
だがそれは本来、往人には無かったものだ。往人は丈のコピーでは無い。だから彼の孤独感や辿り着きたい場所が重なることは無い。
それが見る者に違和感を産み出す。ましてや本作品を鑑賞する層に違うエッセンスを押しつける形になってしまっている。だから最後まで往人に感情移入することは出来ない。
ましてや劇場版はテーマが往人と観鈴の恋愛物に変更されてしまっているので尚更である(観鈴が何故、往人を好きになったのか?といった疑問もあるがこれはまた・・・)。
最終的には観鈴だけがゴールを果たし、残された晴子と往人の二人の魂は行き場を無くし彷徨うように見えるエンディングは意図的だが多くの方が納得することは無いだろう。
ゲームを再構成しようやく完成した劇場版AIRだが、作り手の気持ちとは裏腹に見る者には混乱と不満が募る作品に仕上がっているのは否めない事実である。
(追補)
多用されるハーモニーによる止メ。三段PAN。そしてFADEOUTとモノローグ。光刺す透過光の効果。自然描写の多くが出崎統作品である事を感じさせてくれる。
音楽は、TV版Kanonと同様にアレンジ及び新曲で再構成されている。何故か「夏影」が用意されていない。この点は大きく不満である。
作画監督小林明美氏では無い。前売り券に添付されたDVDプロモのような神作画は存在しない。そのため劇中の絵柄は統一感はない。
原画のトップは、杉野昭夫氏。Kanonキャラデザ総作監の大西陽一氏も作監補佐で参加している。
http://www.air2004.com/